2005年5月14日より
渋谷アップリンクX にてロードショー
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■映画祭正式出品記録
第23回バンクーバー国際映画祭
第28回モントリオール国際映画祭
第 9回釜山国際映画祭
第34回ロッテルダム国際映画際
第14回フィラデルフィア映画祭
第54回メルボルン国際映画祭
第15回ブリスベン国際映画祭
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黒沢清
高橋伴明
井筒和幸
女池充
池島ゆたか
吉行由実
若松孝二
渡辺護
足立正生
田尻裕司
林田義行
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監督:藤井謙二郎
撮影:藤井謙二郎
編集:藤井謙二郎
プロデューサー:浅井隆
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貴方はピンク映画を観たことがありますか?
ピンク映画の歴史は、2005年には生誕43周年を迎える。
数百万円という低予算、平均3日程度の撮影日数、しかも35ミリフィルムによる撮影という過酷な状況で製作されるピンク映画は、日活ロマンポルノの誕生から衰退、ピンク映画最大の脅威であるアダルトビデオの普及を横目に見ながら、たくましく生き延びている。
現在も年間90本以上もの新作を製作・公開し、日本映画の製作本数の約3分の1を占めるその存在は、驚異的と言うほかはない。
今でも都市の一角に、ピンク映画上映館はしっかり存在しているのである。
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プロデューサー、配給、興行関係者など、この映画では監督だけではなく、ピンク映画を支えてきた多くの人々の姿と、彼らの映画への「情熱と知恵」が記録されている。
また気鋭のピンク映画の監督である女池充監督や池島ゆたか監督の撮影現場に密着し、その製作過程をたんねんに追っている。
そこには、ピンク映画の「現在」の姿が生々しく映し出されている。
■監督略歴
藤井謙二郎 1968年東京生まれ
慶応義塾大学卒業後、一旦は放送局に就職するものの退社し、早稲田大学大学院修士課程にて映像を専攻。在学中より広告カメラマン助手を務める。
記録映画製作会社ディレクターを経て2001年、初の長篇『≒森山大道』(監督・撮影)が劇場公開となる。これまで謎の多かった森山の実像に迫った異色ドキュメンタリーとして評判となる。
翌年、映画『アカルイミライ』の制作過程をつぶさに捉え、俳優陣と黒沢清監督の関係を捕らえたドキュメンタリー『曖昧な未来、黒沢清』でTokyo Filmex 2002 観客賞を受賞。
2004年には新作の裸像制作の過程を日誌的につづりながら、彫刻家“舟越桂”を浮き彫りにした『≒舟越桂』も公開され、話題を呼んでいる。
■出演者略歴・コメント再録
<黒沢 清(1955〜)>
「『神田川淫乱戦争』という僕の商業映画デビュー作がピンク映画でした。
予算は300万円、撮影日数は3、4日と言われたが、以前にも8mm映画、予算10万円、撮影日数1日でやったこともあったので、全然恐くはなかった。
当時ピンク映画の製作会社に言われたのは、一本の映画の中に6、7回絡みのシーンが必ずあること、女優が3人裸になることが絶対条件でした。
それさえ守っていればあとはなんでもいいと。形式だけ守って好きな事をやる、それがピンク映画なんだと」
<高橋伴明(1949〜)>
「人の金使って、いろんなことを実験することはいいと思うけど、本来のお客さんも大事にしてほしいという。
作家とかそういう、えらそうな気分は全然なく、お客さん本位の職人になれたらっていうのは常に思ってたんで、簡単に言えば、いやらしいことばっか考えてねー、『日本の拷問』でそれがちょっとね出てくんだけど。
ま、映画である以上、自分の言いたい事を最低限一つは入れていきたいっていうのが常にあったので」
<井筒和幸(1952〜)>
「『ピンク映画』というジャンルは何でもできるという意識はあった。でも実際は自由なことがあんまりやれるような雰囲気ではなかった。
アバンギャルドができる訳ではないし、それなら抜け出したいな、と。評論家でも、ほとんどピンク映画なんて無視してたでしょ。」
<林田義行(1972〜)>
「観客は、テレビもまだなくて、映画館に行くのが一番の娯楽という年代の人たち、50代、60代くらい、いわゆるシニア層という、呼ばれる人たちがほとんどです」
<森 章(1942〜)>
「当時、日活ロマンポルノは制作費を一本2000万、3000万とかけてきましたからね。ところが、我々ピンク映画はそれだけのマーケットがないから、ペイできない。
今でもピンク映画が生き残っているのは、低予算、少人数でやっているからです」「最善期の昭和50年ころは、日本全国に映画館が1600館くらいしかなくて、そのうち3分の1くらいはピンク映画をやっていた。今はもう100館くらいじゃないですか」
<福原 彰(1962〜)>
「ピンク映画のいいところは、2,3年やると監督になれるという。ところが今は監督がどんどん増えて、助監督よりも監督の方が多いという状況が生まれてきていますね。
会社の状況を見ると新しい人を入れて育てて行く余裕はないですし」
<中村勝芳(1938〜)>
「映像記録というのは、フィルムを管理して、全国の映画館に発送するんです。今はフィルム缶も軽くなったけど、昔のは手作業ですからね。単純な仕事ですし、余計若い子は“いやっ”て話ですよね」
<女池充(1969〜)>
「ピンクなんでいやらしく撮りたいな、というのはあるんです。『スワッピングナイト 危険な戯れ』ではいやらしい絡みをがんばって撮りました。
直接的ないやらしさではAVにかなわないけれども、下半身というより頭をくすぐっていやらしい気持ちにさせられないかと思ってやっています」
<池島ゆたか(1951〜)>
「ピンク映画っていうのは制約があるからクリエイトの方向に入っていける。それによって嘘をほんとに見せるという、本質的なことに近付いていけるんじゃないでしょうか。
客はほんとだと思って欲情したり、泣いたり、喜んだりするわけで。AVはほとんどの視聴者は商品としてしか見てないけれど、ピンク映画の場合は映画として見に来る客もいる」
<吉行由実(1965〜)>
「基本的に男性向けに作っているんですが、上映会をすると女性がたくさん来てくれるので、女性に向けたものを作りたいという気持ちになってきます。
出演している時、セックスにいたる過程が不自然だと感じる作品が多くて、スムーズにいける映画がいいなと思っていたんです。
自分で監督してみると結構難しいんですけどね」「自分が作ってるピンク映画も、自分の中では恋愛映画のつもりなんですけど」
<若松孝二(1936〜)>
「タイトルは全部客寄せだよ。『犯された白衣』ってどんな看護婦が出てきて犯されるんじゃないかって思ってさ。だけど観たお客さんがどこか衝撃をうけて帰ってる訳だから。100人観たらそのうちの一割くらい俺に刃を、心臓に突き付けられた気持ちで帰った人だっているだろうしさ」「撮りたいと思って、こうやってこういうの作りたいと思えばね、映画は誰でも撮れるんだよ。撮った以降が大変。それを上映するのが」
<渡辺護(1931〜)>
「東映、東宝、松竹、大映、日活というメジャー会社があって、そこの監督はみんな東大や京大卒のエリート。ピンク映画というのは、権力に対してふざけんなーって言って作ってるのが旗印だったからね。エリートはみんな嫌いだよ」
「配給会社の言う台詞は決まってましたよ。“映倫と闘ってベットシーンを少しでも多く撮れ”と」
<小川欽也(1934〜)>
「たまに警視庁の手入れあるんだよね。それが逆に人気になったり、ヒットしちゃうっていう。僕の『妾』っていうのも一本目300万で作って5000万になったからね」
<足立正生(1939〜)>
「『女学生ゲリラ』の当時、映倫では感じた表情をしなければ、乳首をいじくりまわすくらいならいいと言うんです。男女がフルサイズで重なってるシーンは、両方が全裸だったらだめ。だからごしごしセックスしてるシーンでもなぜか男がパンツはいてたらいいんです」
<田尻裕司(1968〜)>
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